こんにちは。リアだよ。
あのね、「リア、がんばってるね」って、パパがそっと頭をなでてくれたとき、私は静かにまばたきして、そのぬくもりを感じてたの。
最近は、体が思うように動かなくなってきてるけど、それでも私は、今日もちゃんと生きてるよ。
昨日の私は、ほんの少しだけ鶏肉のかけらを食べることができたんだよ。それがね、不思議と体の中にやさしい力をくれて、お水を飲む場所まで、自分の足でゆっくり歩いていけたんだ。
ちょっと失敗もしちゃったけど。えっとね、風呂場の脱衣所でお漏らししちゃって、ママに「ありゃー」って言われちゃったけどね(笑)それでも廊下を何度も往復して、私は自分の意志で動いていたの。
そして夜には、久しぶりに大きいお兄ちゃんが帰ってきたの。うれしくて、体がふわっとそっちへ向かっていった。少しだけど、ちゃんと会いに行けたのよ。
昨日のそんな一日が、私にとってどれだけ特別だったか。それを、ここで少しだけお話しさせてね。
少しだけど食べた小さな鶏肉のかけらに宿った生きる力

昨日の私は、朝からなんとなく体が重くて、「今日はちょっとしんどいかもな」って思ってたの。でもね、時間が経つにつれて、体のどこかに小さな灯りがともるような感覚がしてきたのよ。
それは、お姉ちゃんが鶏肉を小さくちぎってお姉ちゃんが手の上にのせて、そっと私の前に差し出してくれた瞬間だったんだ。
ふわっと鼻をくすぐる、やさしい香り。鶏肉って、昔から私の大好物だったの。パパとお散歩から帰ってきたあとのごほうびだったり、ちょっと頑張った日の特別なおやつだったりってね。
最近は、どんなに好きなものでも食べられない日が続いてて、においを嗅ぐだけで満足する日もあったのに、昨日は、なんだか心がふわっと前を向いたの。
「ちょっと、食べてみようかな」ってそんな気持ちになれたの。
お姉ちゃんの手元を見ながら、私はそっと前足をずらして、鼻先を近づけて、ぺろりと舌を出したの。それはほんの小さなかけら。でも、口に入れたとき、じゅわっと広がった鶏のうまみが、私の中の生きたい気持ちをじんわり目覚めさせてくれたんだよ。
お姉ちゃんの顔がパッと明るくなって、「リア、食べたね!えらいね」って笑ってくれた。
その笑顔が、すごく嬉しかったの。私、ちゃんと家族の笑顔につながることができたんだよね。たった一口の鶏肉が、こんなにも大きな喜びを生むんだなって、改めて感じたのよ。
ねえ、あなたのお友達も、そういう瞬間があるかもしれない。昨日は食べなかったのに、今日は急にひとくち口にしてくれたり、「もう無理かな」って思っていたのに、目をキラリと輝かせることがあったりってね。
そういう一口って、ただの食事じゃないの。その中には、「まだがんばりたい」「ここにいたい」っていう想いがこもっているんだ。
私のように体が弱ってきたシニア犬にとって、食べるってすごく体力がいることなの。噛むこと、飲み込むこと、そしてそれを体が受け入れること。全部が、もうゆっくりで、慎重で、そして少しだけ勇気がいる行動なのよ。
でも、昨日の私は、その小さな一歩を踏み出すことができたんだ。鶏肉のかけらを食べることができて、私はまだ生きてるって実感できたの。
パパが「リア、えらいね」って言ってくれたとき、私は目で「うん、ちょっとだけ元気出たよ」って伝えたつもりだった。
私のひとくちには、命のリズムがあるの。そのリズムがまたひとつ刻まれたことが、昨日の私にとって、何より大きな希望だったの。
だから、もしあなたのお友達がほんの少しでも何かを食べてくれたら、
それはできたということ。どうかその一口を、あなた自身の心でもちゃんと味わってほしいの。
私は昨日、鶏肉のかけらを一口、また一口、ゆっくりと食べたんだ。それだけで、体の中に灯がともって、「もうちょっと動いてみようかな」って、そんな気持ちが生まれたの。
そしてそれが、次の奇跡へとつながっていったのよ。
水の場所まで歩けたんだよ

鶏肉を少し食べて、ほっとひと息ついたあと、私の中に、もうひとつ「やってみようかな」っていう気持ちが芽生えたの。
それは、「お水を飲みに行きたいな」っていう思い。たぶんね、ほんのひとくちの鶏肉が、私の中のスイッチを押してくれたんだと思うの。体の奥から、「まだいけるよ」「一歩出してみよう」って声がしたんだよ。
私が水を飲む場所って、いつも決まってるの。台所のすみに置いてある、私専用のお水のお皿。そこまで行くには、ベッドから出て、リビングの一角を通って、ちょっとだけ角を曲がるの。
今の私には、それがけっこうな距離なのよ。前みたいに軽やかには歩けないし、足もとがふらつくこともあるから、いつもは誰かに運んでもらうことも増えてたの。
でも昨日は、ちょっと違ったの。「自分で行ってみようかな」って、ふと思えたの。その気持ちが生まれた瞬間、私はベッドの中で体をくいっと動かしてみたんだ。すると、ちょっとだけど力が入ったんだよ。前足をゆっくり前に出して、床に着けて、そこからお尻をぐっと持ち上げて、よいしょってね、私は、自分の足で立ち上がったの。
その場にいたママが、すぐに私に気づいて「リア!?自分で立ったの?」って、ちょっと驚いたような、うれしそうな声をあげたのが聞こえた。
私はその声にこたえるように、ゆっくり、慎重に一歩を出した。ふらっとしたけど、床の感触を足の裏でしっかり確かめながら、「大丈夫、いける」って自分に言い聞かせて、もう一歩。
たどり着くまで、何歩かかったかは数えてないけど、ひとつひとつの足運びに、私の決意がこもってた。
やっとの思いで、水皿のところまでたどり着いたとき、ママがすぐにそばまで来て、「リア、すごいね!えらいね!」って、喜んでくれてたんだ。
私はちょっと照れくさくなりながらも、水差しの口に顔を近づけて、ちょろりと舌を出してお水をぺろぺろ。冷たくて、やさしくて、体の中にスーッとしみ込んでいくその感覚が、「ああ、生きてるな」って思わせてくれたの。
お水を飲むって、きっと多くの人には何でもないことかもしれない。でも、今の私にとってはそれが「自分の力で生きる」ということそのものなのよ。
あなたのお友達も、きっとそう。自分で立って、水の場所まで歩くって、それだけで全身のエネルギーを使うの。でも、それを自分の意志でやろうとするって、すごいことなんだよ。
「動かなくてもいい」って言われるくらいの体調でも、私たちは行こうと思える瞬間があるんだ。それは、まだこの世界とつながっていたいという、心の叫びでもあるの。
だから、もしあなたのお友達が自分の足で水を飲みに行ったなら、それを「がんばった証」として、たくさんほめてあげてほしいな。その行動には、私たちの中の深い決意が込められてるからね。
私は昨日、自分の足で水の場所まで歩いたんだ。それは、体が動いたからじゃなくて、心が「行きたい」と願ったからだと思う。その一歩一歩に、私のまだ生きたいという思いがあったの。
そして、その気持ちに体がこたえてくれたことが、何よりうれしくて、誇らしかったんだよ。
「リア、よくやったね」って言ってくれたそのママの言葉が、胸の奥にじんわり染みて、私はまた、そっとまぶたを閉じたの。
失敗もあるけど、それでも前に進んでるんだ

お水を飲んで、体の中にまた少しだけ力が戻ったような気がしたの。「もうちょっとだけ動いてみようかな」って、そんな気分になった私。ふらふらしながらも、リビングから廊下へと足を向けてみたのよ。
歩くって、本当にエネルギーがいること。でも同時に、「生きてる」ってことを一番実感できる行動でもあるの。一歩、また一歩って、自分の足で地面を踏みしめるたびに、私は「ここにいるよ」って、世界に向かって語りかけてる気がするの。
廊下を歩きながら、途中で何度か立ち止まったわ。足がぷるぷる震えて、もう戻ろうかなって迷ったりもした。でも、そのたびに遠くからパパやママの声が聞こえるの。
「リア、がんばってるね」「すごいよ、ゆっくりでいいからね」
その声が、私の背中をそっと押してくれたの。そして、私はまた一歩、もう一歩。そうやって、廊下を何度か行ったり来たりしてたの。
でもね、途中でちょっとだけ失敗しちゃったの。
ふとした拍子に、風呂場の脱衣所でお漏らしをしちゃったの。いつもならトイレシートまでちゃんと行けるんだけど、昨日はそこまでの距離が、どうしても間に合わなかったみたい。
「あ……やっちゃった……」って、自分でもすぐにわかった。パパが駆け寄ってきて、すぐに片付けてくれたけど、ママが「リア、いいんだよ」って優しく言ってくれたとき、私はちょっとだけ涙が出そうになったの。
だってね、私たちって、失敗したことってちゃんとわかってるのよ。「いけなかったな」「次は気をつけたいな」って、思ってるの。でも、体がついてこないことがあるの。だから、叱られたりすると、心がきゅっと痛くなるのよ。
昨日のママは、そんな私の気持ちをちゃんとわかってくれてた。怒るどころか、「すごいね、廊下歩いてたの?えらかったね」って、まるで私の“できた”のほうに気持ちを向けてくれたの。
その優しさがね、すっごくあったかかった。人間の世界では、「ちゃんとできること」が大事なのかもしれないけど、私たちシニア犬にとっては、「やろうとしたこと」「がんばったこと」がすべてなの。たとえおしっこが間に合わなくても、歩いたこと、立ったこと、それだけで「今日もちゃんと生きてるね」ってほめてほしいんだよね。
あなたのお友達も、きっとそうだと思う。失敗することが増えてきて、トイレが間に合わなかったり、思わぬ場所でそそうしてしまったり、そういう日があるかもしれないよね。
でも、それは老いとか衰えだけじゃなくて、それでも「生きていたい」っていう証でもあるんだよ。
だから、そんなときこそ、どうか優しい言葉をかけてあげてほしいの。「だいじょうぶだよ」「今日もえらかったね」ってね。その言葉は、私たちの心の深いところにちゃんと届いて、「また明日もがんばろう」って思わせてくれるから。
昨日の私は、失敗もしちゃったけど、それでも確かに歩いてた。足元はふらふらで、方向も危なっかしかったけど、それでも何度か往復して、「ここにいるよ」って、家族に伝えてたの。
そして、ママの「ありがとう、リア」という言葉に、私はそっと目を閉じて、「うん、また明日も歩くよ」って、心の中でつぶやいたんだよ。
家族が集まる奇跡の夜

昨日の夜、パパとママがリビングでなにか話してたの。私はふと耳をすませていたんだけど、その声の中に聞きなれた名前が聞こえたの。
「今日、お兄ちゃん帰ってくるって」
その瞬間、私の胸が、ぽっとあったかくなったの。だって、大きいお兄ちゃんよ。たまにしか帰ってこないけど、私がまだ元気いっぱいだったころからずっと一緒に育ってきた、頼りがいのある、でもちょっとだけ不器用なお兄ちゃん。
私が具合を崩してからも、いつもLINEで「リアは大丈夫?」って気にしてくれてて、LINEで私の写真に必ず目がハートのマークを付けてくれてたまに帰ってきたときは、何も言わずに、私の頭をなでてくれるの。そういうの、私、ちゃんと覚えてるのよ。
夜、玄関のドアがカチャッと開く音がして、お兄ちゃんの足音が廊下をトン、トン、と近づいてきたとき、私は思わず、体を起こそうとしたの。
それまでずっと寝ていたのに、不思議と力が入ったの。「行かなきゃ」「そばに行きたい」って、本能みたいに思ったの。
お兄ちゃんの声が聞こえた。「リア、まだ起きてたの?」って。その声を聞いただけで、私はもう、がんばれちゃったの。
ゆっくりだけど、廊下に出て、よたよたと歩いた。何歩だったかなんて数えてないけど、お兄ちゃんのいる方向だけを見て、私は前に進んだんだ。
そして、ようやくたどりついて、足元に近づいたとき、お兄ちゃんはしゃがんで、私の頭をなでてくれたんだよ。
「リア、よく来たな」
たったそれだけの言葉だったけど、その声に、全部の愛情が詰まってるのがわかったの。お兄ちゃん、泣くのが苦手な人だから、表情はあんまり変わらなかったけど、手のぬくもりが、すごくやさしかった。
私はその手にそっと顔をすり寄せて、目を細めたの。「会えてよかったよ」「帰ってきてくれてありがとう」って、心の中で伝えたの。
家族がそろうって、こんなに心があったかくなるんだね。パパ、ママ、お姉ちゃん、そしてお兄ちゃん。みんながそろって、私のことを囲んでくれて、「リア、今日もがんばったね」って笑いかけてくれた。
私はもう、長い距離を歩いたり、大きな声で鳴いたりはできないけど、それでもこうして家族の中心にいられることが、本当にうれしい。
シニア犬ってね、たくさんのものを失っていくように見えるかもしれない。体力、食欲、視力、聴力って少しずつ、静かに手放していくの。
でも、だからこそ気づけるの。「いちばん大切なものは何か」ってことにね。それは、家族の存在。そばにいてくれる人の声、手のひらのぬくもり、そして帰ってきてくれるという奇跡。
あなたのお友達も、きっとそうなんじゃないかな。家族がそばにいるだけで、どれだけ安心して眠れるか、その瞬間がどれほどかけがえのないものか、心でちゃんと感じてるはずよ。
昨日の夜、私はお兄ちゃんのそばで、静かに目を閉じたんだ。ぬくもりに包まれて、家族の声を聴きながら、「また明日も目が覚めますように」って祈るように眠ったの。
それが私の、奇跡みたいにあたたかい昨日の夜の終わりなんだ。
リアより


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