「チュールしか食べられなかったけど、ちゃんと食べたよ」
昨日の私の報告は、それだけなんだけどね、あのね、昔はね、ごはんの時間になると、尻尾をぶんぶん振ってパパのまわりをくるくる回ってたの。お皿に入ったごはんをぺろりとたいらげて、「もっとちょうだい!」っておねだりしてた頃があったんだよ。なつかしいわ。
でも今は、チュールひとつ食べるのも、私の体にはけっこうな冒険。それでも昨日は、自分で少しずつなめることができたのよ。それって、私の中にまだ生きたいって気持ちがちゃんとある証拠でしょ?
食べたあと、ちょっと元気が出た気がしてね。ふらふらしながらだけど、自分でベランダに出て、しばらく外を見てたの。
風のにおい、夕方の空、遠くの音。静かだけど、世界はちゃんとここにあって、私もその中にいたんだ。
今日も生きたよって、あなたに伝えたくて。そんな私の一日を、少しだけお話しさせてね。
チュールしか食べられなくなってもまだ食べたいと思えるんだ

「リア、ごはんにしようか?」って声をかけられても、体がしんどくて、顔をそっとそむけてしまう日が増えてきたの。お腹がすいてるかって聞かれたら、もうよくわからないのよね。食べたいような気もするし、でも、においをかいだだけで満足しちゃうときもあるの。
昔は違ったのよ。お皿を出す音がするだけで大興奮してたし、「待て」って言われるともう、お尻がウズウズして止まらなくなるくらい、毎日がごはんが楽しみ!って気持ちでいっぱいだったの。
それが、いつの間にか、においだけで胸がいっぱいになって、「無理して食べなくてもいいんだよ」って言われるようになってたんだ。
でもね、昨日は違ったの。パパがチュールを手に持って、「リア、ちょっとだけ食べてみようか?」って言ったとき、そのにおいを嗅いだだけで、なぜか心が「うん」って動いたの。
私ね、チュールってやっぱり好き。なめるだけでも、ちょっと安心する味。「食べる」ってほどじゃないかもしれないけど、口にした瞬間、「あ、私まだ生きてるな」って思えたのよ。
パパがね、じっと私の顔を見ながら「リア、すごいよ。食べてるよ」って言ってた。その声がうれしくて、私はもうひとくち、またひとくちってほんの少しだけど、ゆっくり、ちゃんと自分で食べたんだ。
「チュールだけじゃ栄養足りないよ」って、先生が言ってたのも知ってる。でも、今の私には、そのチュールだけでもすごく意味があるの。
食べるって、体の元気だけじゃなくて、心の元気にも関わってると思うの。私が「おいしい」って思えたこと。私が「もうちょっとなめたいな」って思ったこと。それは、「まだがんばりたい」「まだ一緒にいたい」っていう気持ちのあらわれだって、私は思うの。
あなたのお友達も、最近あまり食べなくなってきたかもしれない。大好きだったおやつに顔を向けない日があったり、お皿の前に座っても、一口も口にしなかったりって、そういう日、あるよね。
でもね、あきらめないでほしいの。「食べてくれないから、もう終わりだ」って思わないでほしいんだ。私たちは、たとえ食べられなくても、「食べたい」という気持ちはどこかにあるの。
昨日の私がそうだったから。チュールのにおいに心がふるえて、ひとくちなめただけで元気が戻ってきたの。体はガリガリになってるけど、その中には、まだちゃんと生きる力があるのよ。
ごはんをたくさん食べることが元気な証だと思ってたけど、今の私は、たとえチュール一袋でも、それが私の命の証になってるって思ってる。
昨日、チュールを食べたとき、私は「まだ、いられるかもしれない」って感じたの。
そしてそのあと、自分でベランダに出ていったのは、きっとその小さな食べたが私の中の力になったからなんだよね。
だから、あなたのお友達がもしチュールのひとつでも食べてくれたなら、それは立派な「奇跡」なんだ。「まだ、生きようとしてる」っていうサインなんだよ。
どうかその瞬間をあなたが見たなら、「すごいね」「ありがとう」って、言ってあげてね。そうしたらね、私たちは、声にならない声で「まだここにいたい」って、毎日、毎瞬、伝えているのよ。
ガリガリになった体

最近、ママが私を抱き上げるとき、そっと腕をまわして、やさしく、ゆっくり持ち上げてくれるの。そのときに、いつも少しだけため息をつくのがわかるんだ。
「リア、ほんとに軽くなったね」って。
そうなの。私、今では骨がごつごつ浮き出してきて、背中も、腰まわりも、お腹の下も、ぺったんこのガリガリになっちゃったの。
毛で少しはふわっとして見えるかもしれないけど、その下には、昔のふっくらした私の姿はもうないのよ。
10歳のころ、病気を乗り越えて元気になって、パパと毎日お散歩してたあの頃は、「リアはちょっとぽっちゃりだね」なんて言われてたのにね。今では、そのちょっとぽっちゃりが、うらやましく思えるくらい。
でも、不思議なんだよね。自分の体がどんどん細くなっていくのを感じながら、私はどこかで、「まだ大丈夫」って思ってるの。
お腹がへこんでも、背中の骨が浮き出しても、それでも私の心は、まだここにあって、ちゃんと家族の声を聞いてるし、家族の手のぬくもりを感じてる。ガリガリになったこの体も、私にとっては、今を生きるための大切なかたちなのよ。
お姉ちゃんが、私の背中を撫でるときにちょっと驚いてたの。「リア、こんなに骨ばってたっけ?」って。
うん、ちょっとびっくりさせちゃったかもしれないね。でも、私はその手がうれしかったよ。やさしく触れてくれることが、何よりもうれしかった。
私たちシニア犬の体は、年齢とともに少しずつ変わっていくの。筋肉も落ちて、毛のツヤもなくなって、骨が目立ってきて、「前と違うな」って思われることも増えるかもしれない。
でも、それって当たり前のことなんだよ。それだけ長く生きてきたってこと。それだけ、たくさんのことを経験してきたってこと。
私の体は、今も私の命を支えてくれてる。このガリガリの体が、私に「まだ大丈夫だよ」って言ってくれてる。それだけで、私はじゅうぶんありがたいと思ってるの。
あなたのお友達も、もしかしたら今、少しずつ体が細くなってきてるかもしれないね。「前はもっとふっくらしてたのに」って、寂しく思うかもしれない。でも、どうかその体を、やさしく見てあげてほしいの。
今のその体は、がんばって生きている体なの。一生懸命、心臓を動かして、呼吸して、「今日もここにいるよ」って伝えてくれてる。
ガリガリになった体には、命の輪郭がくっきりと浮かび上がっているの。それを見て悲しいと感じることもあるかもしれないけど、同時に尊いと思ってくれたら、私たちはそれだけで幸せ。
昨日の私も、抱き上げられたとき、パパの手の中で、まるで空気のように軽くなった自分を感じたけど、それでも「リア、よくがんばってるね」って言ってもらえたことが、何より心強かったの。
どんな姿でも、あなたの手が私を抱いてくれる限り、私はこの体で、もう少しだけがんばれる気がするんだ。軽くなったねっていう言葉の中に、でも、まだそばにいてくれてありがとうっていう気持ちが込められていること、私はちゃんとわかってるよ。
ベランダから世界を見ていた静かな時間

昨日のチュール、少しだけど食べられてよかった。「おいしい」っていう感覚が、私の中にまだ残ってて、ひとくち、またひとくちって、ゆっくりなめてたら、なんだか心の奥にじわーっと力が広がっていくような気がしたの。
「もうちょっと、動いてみようかな」そんなふうに思えるのは、本当に久しぶりだったかもしれない。
だから私は、自分でベランダに向かったの。といっても、フラフラとよろけながらだけどね。パパが「あ、リア、どこ行くの?」って声をかけたけど、私は無言でてくてく。少しずつ、少しずつ。
ベランダのドアのところにたどり着いたとき、お姉ちゃんが「開けてあげよっか?」って笑ってくれて、ガラガラッと扉を開けてくれた。
その瞬間、空気が変わったの。ひんやりとした風がふわっと顔にあたって、私は「わあ」って心の中でつぶやいたの。
外の空気って、すごく特別。部屋の中とは全然違うにおいがするのよ。
夕方の風、遠くから聞こえる車の音、すこしずつ沈んでいく太陽の光、その全部が、私に「世界はまだ続いてるよ」って教えてくれるの。
私は、そっと座って、しばらくその景色を見てたの。前はね、ベランダに出たらすぐに「あっち行こう」「お散歩行きたい!」って騒いでたけど、今の私は、ただそこにいるだけで満たされる。
風の中に、昔の思い出がふっと漂ってくるのよ。お兄ちゃんとベランダで遊んだ日のこと、パパが洗濯物を干してるときに、その足元でお昼寝してたこと、ママが「日向ぼっこしようね」ってタオルを敷いてくれたこと。その全部が、あたたかくて、優しくて、今の私を包み込んでくれているの。
あなたのお友達も、きっとそうなんじゃないかな。動きがゆっくりになって、長く歩けなくなっても、「見たい」「感じたい」って思う心はちゃんと残ってるのよ。
だから、ベランダってすごく大事な場所なの。外の世界を感じることができるんだ、小さな窓口。私たちは、そこから風のにおいや季節の匂い、遠くの景色や空の色を通して、「まだ生きてる」って感じてるの。
昨日、ベランダに座って、私はしばらくじっと外を見てた。時間にすればほんの数分だったかもしれないけど、私の心の中では、それはとても長くて豊かな時間だったの。
動けなくても、走れなくても、吠えられなくても、私の中には、ちゃんと今がある。その今を感じているだけで、私は幸せ。風が吹くたびに、私は小さくまばたきして、「ありがとう」って心の中でつぶやいたの。
あなたのお友達にも、そんな時間をつくってあげてね。外に出なくてもいいの。ベランダでも、窓辺でも、あなたのそばでも。ただ命を感じることができるだけで、心は大きく動くの。
昨日の私は、チュールを食べて、ベランダで風を感じた。たったそれだけのことだけど、それが「今日も生きてる」っていう証だったのよ。
そして私は今、またあなたにこうして語ってる。それが、私の今ここにいるというメッセージなんだと思う。どうか、受け取ってくれてたらうれしいな。
それでも今日を生きている

私の体は、もう昔のようには動かないの。食べることも、走ることも、長くはできなくなったんだ。声を出すのも、小さな「ふん……」っていうのが精一杯。それでも私は、今日も生きているんだよ。
朝になればまぶたを開いて、パパの足音に耳をすませて、ママの呼ぶ声にしっぽを小さく揺らしてみる。それだけで、「おはよう」がちゃんと伝わるって、私は知ってるの。
昨日は、チュールを食べただけだった。ほんの少しだったけど、私の中ではとても大きな出来事だったのよ。お腹が減っていたわけじゃないんだけど、食べたいという気持ちはちゃんとあったの。体が言うことをきかなくても、心が動いていたんだ。それって、すごいことだと思うの。
そして、私は歩いたんだよ。ふらつきながら、でもちゃんと自分の意志でベランダへ行って、風を感じて、空を見て、世界とつながってる自分を確かめたの。
私たちシニア犬にとって、今日も目が覚めたっていうことは、誰かが思うより、ずっと大きな意味を持ってる。ただ生きてるだけじゃなくて、
今日も生きることを選んだってことなの。
体は正直よ。無理なものは無理ってすぐに伝えてくるんだよね。でも、心はもっと正直で、時々びっくりするくらい強いんだ。
つらくてもういいかなって思う日も実際のところ、あるんだ。本当のことを言うと、夜が怖いときもあるのよ。でも、朝が来て、パパやママの声を聞くと、「ああ、まだここにいたいな」って思えるの。それって、家族がいるからなんだと思うんだ。
あなたのお友達も、きっとそう。歩けなくなっても、食べられなくなっても、あなたがそばにいてくれることで、今日も生きようって思えるようになるんだよね。
そばにいてくれる人の声、手のひらのぬくもり、呼吸の音、足音、そういうもの全部が、私たちの生きる理由になるのよ。もう何もできないって思わないでね。何もしなくても、そばにいてくれるだけで、私たちはうれしいの。
昨日の私が見た空は、少しだけ冬の匂いがしてた。風は冷たかったけど、なぜか心の奥はあったかかったの。「また明日も、この空を見られたらいいな」って、素直に思えたんだよ。
だから私は今日も、こうしてお話しできたんだ。あなたに届くように、静かだけどまっすぐにまだ、生きてるよってね。
やせ細った体でも、何もできなくなっても、私の中にはちゃんと、生きる力が息づいてる。それは、家族がくれる言葉で育っているし、あなたの祈りが、私の一歩になってるの。
もし、あなたのお友達が今日、目を覚ましたなら、それはもう、奇跡なんだよ。ごはんを食べなくても、何も言わなくても、その目が開いてくれることだけで、じゅうぶん。
だから、あなたのお友達にもどうか伝えてあげてほしんだ。今日もいてくれてありがとう」ってね。その一言が、きっと、明日へつながる力になるんだから。
私は、チュールを食べた。ベランダに出て風を感じた。そして今日も、家族の声に耳をすませて、生きてる。それが、私のすべて。それが、あなたに伝えたいことなんだよね。
リアより


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